漆黒に染まった銀弾:22

その夜、キャメルは久しぶりの非番だった。赤井秀一が生きているとわかってから、黒の組織に関する情報があれよあれよと出てきて、休みなく働く毎日がしばらく続いていたのだ。そのせいか、昨晩、昼には気に入っているファミレスにカレーを食べに行こうと決めていたのに、目が覚めた時には既に夜だった。ファミレスなので営業時間を気にする必要はほとんどないが、せっかくの非番の大半が就寝時間に食われたと思うと情けなかった。
目当てのカレーを食べて、少し都内をドライブした後、やはりこのまま非番が終わるのは少々悔しくて、仮住まいにしているマンションから歩いてレンタルショップへ向かった。明るい通りを進むと遠いが、狭い路地を通っていけば近いのだ。
彼を見つけたのはその帰り道。一昔前に流行ったスパイ映画を借りて、小瓶のウイスキーをコンビニで買った。レンタルショップでずいぶん悩んでしまったから帰りには外灯も消えており、真っ暗だった。
だが目に見えなくても、押し殺された喧騒を感じることはできる。キャメルはレンタルしたDVDとウイスキーを路地の入り口にそっと置き、息を殺して足を忍ばせた。路地の中心部で、男が二人。ひとりは立っており、もうひとりは何かに馬乗りになるように膝と手をついている。キャメルが不意を突くようにケータイのバックライトを向けると、ひとりの男に押さえつけられているのが子供だとわかった。
「警察だ!!手を上げてその子供から離れろ!!」
小径銃を構えて叫ぶと、男二人は顔を隠すように手を上げ、しばらく考えあぐねるようにその場から動かなかった。だがキャメルが銃を下ろさないまま駆け寄ると、ずいぶ上手な舌打ちを聞かせ、足早に走り去っていった。
子供に近づく。うつ伏せで頭を押さえられていた少年は、右足のふくらはぎと左肩から血が流れていた。傷口からして刃物で切りつけられたようだ。
「坊や、大丈夫かい?すぐに病院に連れて行くよ」
彼は返事をしなかった。あの男たちからずいぶん逃げ回ったのか、疲弊しきっている様子で、汗もたくさん掻いている。キャメルは彼を抱えて路地を戻り、ウイスキーとレンタルDVDを抜いたビニール袋で、傷口近辺をきつく縛った。傷をきちんと見る必要があると思い、自販機の前まで移動したのだが、そこで初めて気がついた。
この子…銀髪だ…
目の色も変わっている。ダークグリーンのような、紺碧のような…キャメルはその目の色を持つ人物を知っていた。
「まさか、ジン…」
少年は答えない。とにかく疲れて、眠りたくて仕方がないようだった。よく見ると靴も履いていないので、足の裏や指先は小さな傷で見るに堪えられないものとなっている。
とりあえず病院に連れて行こう。このまま死なれては、引き出せる情報も引き出せない。
病院ではひどく不審がられ、心が折れそうにもなった。この少年がひどく無口で無感情なものだから、尚更である。いっそ警察呼んでもらった方が楽かもしれないと思い始めた時、沖矢に扮する赤井とジェイムズが来た。
「ご心配なく…我々は先ほど彼から通報を受けました、警察の者です」
ジェイムズがぺらぺらと医者にそれらしいことを言い、ジンの容態について事細かに聞いている。沖矢はキャメルに素っ気なく声をかけた後、治療の為に打たれた麻酔で眠る少年を睨み付けた。
彼にとっては恋人だった宮野明美の仇である…キャメルはその目に背筋の凍る思いがした。
だが二人の元に来たジェイムズの言葉で、彼のその目も戸惑いを浮かべる。
「足の怪我はたいしたことないようだが…羽交い締めにされて後ろからナイフを突き立てられたと思われる肩の傷がひどいらしい。あと、彼は自分の名前も両親のこともわからないようで、記憶障害の疑いがあるそうだ」
「記憶障害だと?」沖矢は不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。「怪しいもんだな…演技じゃないのか?」
「いえ…でも、そう聞くと納得がいきますよ」
キャメルは声をかけた時の少年の反応を思い出していた。じっと黙りこみ、痛みに耐えながら、見知らぬ大人に警戒するような反応である。ジンなら誰とも関わらないよう逃げるのではないか…本当にジンなのか判断できなかったのは、その様子があまりにも普通の子供だった為である。
「そもそも大人が幼児化するなんて、そっちの方が信じられない…もしそれがあったとしても、記憶障害やそれ以上の副作用があっても不思議じゃありません」
沖矢が考えるように口を結んで黙っていると、キャメルは怖かった。また何か的はずれなことを言ったんじゃないかとか、触れてはいけない部分に触れたのではないかとか。結局彼はそのまま何も言わず、ジェイムズが口を挟んだ。
「まぁとにかく話をつけて、我々で保護することになったから、見極めるのはその後でも遅くはないだろう…赤井くんがいるところだと、あの少女と近すぎて危険を伴うかもしれないから、私かキャメルのところで様子を見よう」
三日は入院しなければならないので、交替で彼を見張ることになった。
少年が目を覚ましたのは夜が明けて陽が上り、気温も上がって汗ばみはじめる昼頃だった。見張っていたのはジェイムズで、すぐに連絡があった。
キャメルが先に着き、後から来た沖矢はコナンを連れている。
ジンは看護師に包帯を変えてもらったばかりで、まだ麻酔が抜けきれてないのか、気だるそうに横になっている。
美しい宝石のような瞳に震える、怯えの色…やはり記憶障害は本当なのではないかと、キャメルは考えた。
「名前は?」
ジェイムズが尋ねると、周りの大人たちを怖がりながらも、小さく答えた。
「…ジン…」
沖矢が顔をしかめる。ジェイムズが口出ししないよう目で合図を送り、なるべく穏やかな声で続けた。
「お父さんと、お母さんは?」
ジンは瞬きを何度もした。動揺している。ただ、触れられたくない部分を指摘されて動揺しているというよりは、答えがはっきりしなくて困っている、といった様子である。
「お父さんは…待ってる…と、思う…」
「どこかで、君を待っているのかい?」
「……ロンドン…」
答えながら、大人たちの反応を窺っている。自分の発言が正しいのか、本人も不安なようだ。
「じゃあ、お母さんは?」
「お母さんは…」
ジンは困ったようにジェイムズを見つめ返す。やはりその瞳は震えている。母親がどこにいて何をしているのか、ジンもわからないのだろう。
「記憶障害って段階があるって本で読んだけど、この人の場合、一定の年齢の時の記憶まで退化してるんだね。それがあの時の薬の影響かどうかまではわからないけど…」
コナンがベッドに歩みより、覗きこむように少年を見つめる。少年は怖がっていた。
「でも、たぶん大丈夫だよ」コナンは大人たちに向かって笑って見せた。「さっき赤井さんとも話してたんだけど、組織に黙ってこのジンって子を探してる人がいて、その人は組織を裏切ってでもこの子を助けたいみたいだから。この子が見つかったって教えたら飛んでくるだろうし、きっとこっちの味方になってくれるよ」
「どこでその人と知り合ったんだ?」
ケータイでメールを打ち始めた彼に、ジェイムズは感心した顔で尋ねる。
「先週まで僕、キャンプに行ってて…そこで知り合ったんだ。まぁ、向こうが、僕が小五郎おじさんところの子供って知ってて、このジンって子を探してほしいって話しかけてきたんだけど」
二人がコナンに目を向けている間、キャメルはポケットの中のことを思いだし、ジンに近寄った。
「そういえば昨日、これが落ちてたんだ。君のかと思って拾ったのだけど」
ミニカーである。まだ買ったばかりの新しいやつだ。ジンはほんの少し、目を見張らなければわからないほどであるが、口元を緩めて笑い、肩に怪我をしていない方の手を伸ばした。
「誰かに買ってもらったのかい?とても大事そうだね」
キャメルが尋ねると、ジンは自分の胸の上でミニカーを走らせながら、頷く。
「一緒に暮らしてたおじさん。知らない人」
「知らない?しばらくその人に保護されていたのかな」
ジンは難しそうに首を傾げた。
「でも、おじさんが逃げろって言って、その家追い出された。とにかく遠くに逃げて、それから戻るか戻らないか決めなさいって」
そう言う少年は寂しそうだった。
コナンがメールを送ってしばらくすると、病室が強くノックされた。大人たちが緊張した面持ちで立ち上がる中、ドアを開けて入ってきたのは、コナンとそう変わらない歳だと思われる少年だった。髪も瞳も黒いが、手足はジンのように長い。
「ジンっ…」
ベッドに横たわるジンを見るなり、少年は安堵して脱力した。どんな奴が来るのだと構えていた大人たちも、一気に緊張感が解けた。
「こ、コナンくん、彼が…?」
「うん。ジンと同じ薬を打って、子供になったんだって。誰も見たことないって言ってた、ジャックって人だよ」
ジェイムズとキャメルに緊張感が戻る。ジャックは煩わしそうに彼らを押し退け、ジンに駆け寄った。
「ジン、どんな奴が襲ってきたかわかるか?どこでやられた?」
急に現れて、真剣な顔で問い詰めるジャックにジンは気圧され、ミニカーを持っていた手でキャメルの腕を掴む。藁にもすがる、とはこのことかもしれない。ただ、ジャックはショックを受けていた。実の父親である彼からしたら、息子が自分より見知らぬ男を頼ったのは、予想外だったのだろう。
「と、とりあえず、明後日には退院するから、どこで彼を保護するか決めないと」
「俺も保護しろ」ジャックはキャメルに食ってかかった。「ジンひとりでいたら昨日みたいになるから、俺も連れていけよ」
「お前なぁ!」コナンがジンの首根っこをつかんだ。「ジンのこと協力する代わりに、お前もこっちに協力するって約束だっただろ!!お前とジン一緒にしてたら何か企むかもしれねーし!!」
「企むわけないだろこんな状況で。どれだけ信用してないんだ。それにそんなに心配ならお前とその得体の知れない男も一緒に来ればいいじゃないか。夏休みだし。なんなら宿題手伝ってやるよ」
得体の知れない男とは沖矢のことである。ジャックには彼がライとして組織に潜入していたことを話していなかった。
「確かにキャメルひとりで組織の人間ふたり管理するのは難しいだろう…だが俺もあの娘から目を離すわけにはいかないからな…」
「ジョディ君に行かせよう…彼女がいれば、とりあえず夫婦という形で周りの目も誤魔化せるだろう」
ジャックは勝ち誇った顔でにやり笑って、コナンをねめつけた。ジンが見つからない間はずいぶん不安そうで申し訳なさそうだったくせに、息子が見つかった途端なんとも余裕ぶっているものだ。
「君はどうする?」
沖矢が耳打ちしてきたので、コナンは顔をひきつらせて答えた。
「俺もキャメル捜査官のところに泊まり込めるよう図ってみるよ…あのジャックだけならまだしも、ここにいないジョナサンも気になるし…」
沖矢は頷き、あの娘のことは俺が見とくから気にするな、と頼もしい言葉をかけてくれた。彼のような頼れる人間が他にも何人かいれば、こんな気苦労はなかっただろうな…とコナンは思う。