漆黒に染まった銀弾:25

夜が深くなり、生ぬるい静寂が町をゆっくり覆う頃、寝息を立てているふりをしながら耳を澄ませていたキャメルは目を開けて、なるべく音を立てないようにベッドを降りる。すぐに追うと気づかれてしまうので、リズムをむゆ乱さず寝息を立てながら、ドアに耳を当てる。
VGPはちま玄関のドアを開ける音。相手もなるべく音を立てないよう、緊張で体を強ばらせているのがわかる。
ドアの閉まった音を聞いてから、キャメルも玄関に出た。
「今から行きます」
エレベーターが下に降りていく表示を確認しながら、小さな声でケータイの向こうにいる男へ呼び掛けた。
マンションを出て、すぐに路地裏へ回り込み、駆け足で待ち合わせた場所へ向かう。そこで待っていたのは、フードをかぶりマスクをつけた赤井秀一だ。
「赤井さん、わざわざすみません」
「いつもあそこなのか?」
赤井は親指で道路を指した。今時珍しい公衆電話があり、先程こっそり部屋を抜け出したジンが入っている。
「あ、はい…ここに来てから毎晩、あの公衆電話で三時間ほど何かを待っているようで…」
「組織からの連絡か?」
「でも、あの子、本当にただの子供みたいで、記憶が戻っているようには思えないんです。そんな子に指令を出したとしても…」
「それはわからない…俺はまだ信じちゃいないからな」
赤井は冷たく言い放つと、鋭い眼差しで彼の監視を再開した。
今日までの間、ジンがどれだけ大人しく待っていても、電話が鳴ることはなかった。眠らないようにたまに頬をつねったり、頭をぶつけたりする様子はいたたまれなく、何も起こらなかった日はジンもひどく悲しそうな顔でマンションに戻るのである。公衆電話に入ってる間はこちらに背中を向けているので顔までは見えないが、たまに泣いてるように小さな肩が震える時もあった。
この日もそうだ。電話は鳴らない。ジンは公衆電話の中で足を抱え込むようにして座り、じっと受話器を見つめている。
「赤井さん…あの子は、たぶん…」
「しっ」赤井は目を逸らないまま、口元に指を立てた。「誰か来るぞ」
足音は聞こえない。だが赤井の言う通り、ジンが座り込む電話ボックスに、サラリーマン風の男が歩み寄ってきた。
赤井とキャメルに緊張が走る。
男はすぐにジンに気付き、公衆電話をノックした。ジンは怯えるように体を強ばらせて、外から開けられないようにドアを押さえた。男は困ったように辺りを見回した後、持っていた鞄からケータイを取りだし、どうやらそこにメッセージを打ち込んで、ジンに見えるように向けた。
「組織の奴かもしれない」
赤井がつぶやく。
男は軽く手を振ると、すぐその場から立ち去った。そのまま電話は鳴らなかったが、男が立ち去った後、ジンが少しだけ電話ボックスから手を出して、何かを手にした。
「今日の奴の動向を細かく見張っておけよ」
赤井はキャメルに言い付け、その場から去っていった。
明くる朝、ろくに寝ていないはずのジンはいつも通り起きてきた。キャメルが先に起きてコーヒーを飲んでいたので、少しびっくりしたような顔はしたが、いつも通り全員の朝食を作り、キャメルにも出してくれた。
「それ、どうしたんだい?」
ズボンの後ろポケットに、ジンが鳥の羽根を差していた。珍しい柄の羽根である。ジンはそれをつまみ出すと、とっておきの宝物を自慢するように、キャメルの顔の前でひらひら揺らした。
これを拾っていたのか。
ジンはとても無口で、自分から率先して口を開くことはまずなかった。口を開けたとしてもとても小さな声で、盗聴されていてもなかなか拾えないだろう。
キャメルはジョディもジャックも起きていないことを確認し、自分も声を小さくして、彼に耳打ちした。
「実は、知っているんだ…君が夜、表通りの公衆電話で何かを待っているの」
ジンは目を丸くして驚いた後、まるで叩かれるのを覚悟するように、ぎゅっと体を強ばらせて目を閉じた。
「ごめんなさいっ…」
「あ、いや、違うよ、別に怒ったりはしないよ。ただあんな夜中に子供だけだと危ないから、ちょっと隠れて見守っていただけなんだ。君にもああしなきゃいけない事情があるんだろうし、言いたくないこともあるだろう」
キャメルの言葉がよほど想定外だったらしく、ジンはうろたえ、体をじっと強ばらせたまま、目だけきょろきょろ震わせている。
「ご、ごめん…やっぱり覗き見なんてよくなかったな。今夜からはしないよ」
ジンはちらりとキャメルを見て、口元に手をかざしたので、キャメルが耳を寄せる。
「お父さんからの電話があるかもしれないんだ…」
「えっ、お父さんから!?」
ジンが頷く。「お父さんは仕事で忙しいから、家に帰ってこられないけど、毎日電話はしてくれたの。家の電話は悪い人に聞かれているかもしれないから、一番近い公衆電話に」
「それで待っていたんだね」
少年はすっかり元気をなくしてしまい、ずいぶん暗い表情でベーコンエッグにフォークを刺した。
「…お父さんとの電話は、お母さんには内緒だったんだね?」
「別に内緒だとは言われなかったけど…お父さんとお母さんは、何か、嫌い合っているみたいだったし…どっちかの言う通りにしてたらどっちかに怒られるし…静かにして、家の用事をひたすら片付けていれば、怒らないから」
両親の前でひたすら息を潜めて、怒られないように俯く少年の姿を想像すると、胸が張り裂けそうになるのと同時に、どうしようもない怒りが沸いてくる。
ジャックとジョディが起きてきた後、朝食もまだ済んでいないジャックを無理やり近所のコインランドリーに連れ出した。溜まった洗濯物を乱暴に放り込みながら、昨夜のジンの行動と、今朝話した内容を全て聞かせた。
「何でもっと夫婦らしくいられなかったんですか!!せめて子供の前でだけでも!!」
ジャックはベンチシートに座ったまま、拗ねた子供の顔をしている。
「知らなかったんだよ」
「あん?」
「ジンがそんなに我慢してたなんて、知らなかった。今の今まで」
「普通に考えたらわかるだろ!!大体、まだ五歳の子供に対して、夜中の公衆電話に一人で来るように指示するなんて、常識はずれもいいところじゃないか!!
昨夜だって、残業帰りか何だかわからんが、サラリーマンみたいな男が近づいてきて…何もなかったからよかったが…」
「待て」ジャックの目が鋭く光る。「その男、背丈はどれくらいだった?ジンに接触はしなかったのか?」
「あ、えーと…」
キャメルは昨夜の様子を思い返す。
「背は一七〇ないくらい…日本の成人男性の平均より少し高いくらいかな。痩せ形の、三十代前半ほど…紺のスーツパンツに、半袖のカッターシャツ。顔はよく見えなかったからわからないが…」
「ジンに接触は?」
「あんな時間に子供一人で公衆電話にいるから、不審に思ったのか、電話ボックスをノックしていた。だがジンが開かないようドアを中から押さえたから、ケータイで何かメッセージ伝えて、その後すぐそこから立ち去ったよ」
ジャックはしばらく情景を思い浮かべる
ように考え込み、おもむろに洗濯機の中止ボタンを押した。
「帰るぞ」
まだびしょ濡れの洗濯物をキャメルが抱えて、マンションに戻る。ドアを開けると、ジンがうつ伏せで倒れているのが見えて慌てて駆け寄ったが、寝ているだけだった。シャワールームからジョディが出てきて、笑った。
「あら、寝ちゃったのね。さっきまでそこで遊んでいたのよ、ミニカー転がして」
キャメルとジャックは安堵の溜め息を漏らし、脱力した。よだれが垂れるほど眠り込んでいるようだったので、ベッドに連れていく為にキャメルが抱き上げると、ジンのポケットからひらり、例の羽根が舞い降りた。
ジャックがつまみ上げる。
「これが、昨日の男が残していった物?」
「あぁ、たぶんな。そいつがいなくなってから、ジンが拾っていたから」
美しく毛並みの揃った羽根で、その大きさからして大型の鳥のものであることは明らかだった。先端から、黒、茶色、白が並び、若干硬め。
「何の羽根だろ…」
ジャックは目の前で揺らしたり、匂いを嗅いだりしたが、メッセージ性は感じなかった。ただの鳥の羽根である。それも剥製のものなどでなく、どこかで拾ってきたような、少々不衛生な部分も見受けられた。
「もしあれなら、コナン君に連絡してみる?」
ジョディがケータイを取り出しながらウィンクしたので、ジャックは不信感丸出しで顔を歪める。
「何でだよ、必要ないじゃないか」
「あら、あの子あー見えてけっこう面白いところに気がつくのよ。暗号とか大好きだしね」
鳥の羽根をくるくる回す。錯覚なのか獣らしいにおいがした気がした。
夜中にひとりで公衆電話の前にいるジンを思い浮かべる。気にしたこともなかったが、きっと身を切るような寒さの日もあっただろう…そういえば、家から滅多に出さなかったから、分厚いコートやジャケットなんて与えていただろうか。薄着のまま小さな体を丸めて、震えながら言いつけ通り電話を待っていたのだろうか。そんなことも知らず、どんなに忙しくても一日に一度は連絡を入れていると、父親の役割を十分果たしている気でいた自分は、いったい何を見ていたのだろう。
サクラが羨ましかった。目に見える形で遺品を与え、未だにジンがそれを身に付けているのだから。
「あ」ジャックは羽根をくるくる回していた手を止めた。「この羽根、もしかして」