漆黒に染まった銀弾:28

「羽根くれたおじさん」
ジンが嬉しそうにキャメルに紹介した男は、米田と呼ばれた係員の格好をしていたが、マスクを破りとるとコナンも見たことのある顔だった。
「お前、何でここにいるんだよ、ジョナサン!?」
ジャックも把握していなかったらしく、困惑と動揺が露になっている。ジョナサンは答える気などさらさらなさそうで、ブラックから奪い取ったカセットテープを沖矢に投げつけた。
「ジンを連れて逃げてちょーだい、ジャックさん。運転手つきの車を裏口すぐに準備してるからさ」
「いや、でも」
ブラックが立ち上がる。結構派手に顎を蹴られたように見えたが、どうやら体まで強靭なようだ。
ジョナサンは飄々とした態度で首を振った。
「あなたには内緒だったんだけど、俺、本当はあなたよりずっとずっと強いんだなぁ」
それでも踏み出せないジャックを沖矢が抱き上げ、ジョナサンの言った裏口へ急いだ。フェンス越しにファミリーワゴンが見える。後部座席のドアが開けっ放しになっており、開くフェンスからそのまま雪崩れ込むように乗った。
ドアが閉められ、発進した直後に、銃声が三発響いた。
「尾行は?」
コナンが後方を窺う。
「今は大丈夫そうだな」沖矢が細長い溜め息を吐き出す。「バケモノみたいな奴だな、あのブラックって奴は…全く隙が見つからなかったよ」
「ジョナサンって、確か最初にクラウディオに変装して来た…」
キャメルが口を開いたところで、ジンが運転席の方へ首を伸ばす。運転席に座っている男はレストラン街でジンに声をかけた太った店員で、ジンがじろじろ見つめていると、やけに困惑して運転しにくそうだった。
キャメルが慌ててジンを抱き寄せる。
「こら、だめだよ!!フロントガラスから君が見えたら、せっかく逃げてこれたのに…」
「ミニカーのおじさん」
「え?」
コナンが血相変えて前のめりになり、運転手を睨み付ける。運転手は決まりが悪そうに俯いたり横を向いたりしているが、変装してても骨格まではなかなか隠せないものである。
「ミニカーのおじさんって、一緒に暮らしてたっていう…」
ウォッカだ、とコナンも沖矢も気づくが、口に出すわけにはいかない。記憶を失っているジンの前なら構わないが、ウォッカの前で自ら正体を露見するようなことは避けたい。
「どこ行くの?」
人見知りの激しいジンが、ごろごろ喉を鳴らす猫のように、ウォッカにはすり寄ろうとする。一緒に暮らしている間に余程の好印象を残したのだろうが、キャメルは少し妬けた。
「悪い人が追ってこないところだ」
「そこでまた一緒に暮らすの?」
「いや…俺は仕事に戻らないと」
「じゃあお父さんがいるの?」
ジャックの顔が歪む。今にも泣き出しそうなその悲痛な顔は、座席の陰になってジンからは見えなかった。
「お父さんは、いない…自分で決めるんだ、どうするか」
ジンも悲しそうな顔になる。
「………お母さんは、もういないの?」
核心を突くようなことを突然言うものだから、その場にいる者全員が、咄嗟に答えることができなかった。その沈黙で悟ったのか、ジンは口元だけで微笑んで見せて、大人しくキャメルの隣に座った。
ウォッカが車で送ってくれた先は、町中にあるビジネスホテルだった。キーを手渡され、名残惜しそうにジンを見てから、彼は運転席に戻ろうとした。
「なぁ…」ジャックがその背中に声をかけた。「お前が何でジョナサンとつるんでるのか知らないが…ブラックじゃなくてジョナサンとってことは、やっぱり…」
「…その子、よろしくな…」
ウォッカは車に乗って去っていく。ジンが小さく手を振った。
ジョナサンが用意したらしい部屋にはカセットデッキが準備されていた。ジンはベッドに横たわり、今まで経験したことのない大きな哀しみに、頭も体も動かない様子である。母親のカセットテープを一緒に聞いていいか尋ねた沖矢にも生返事で、人形のようだった。
ガシャン、ジー…と、懐かしい音が響く。
(ジン、起きなさい)
音割れした女性の声が響くなり、それまで上の空だったジンが、電流を受けたように起き上がった。黒澤サクラの声なのだろう。雑音が多くて聞き取りづらいが、クールな顔立ちに似合わず、わりと愛らしい声だった。
しばらく生活音のようなものが続いてから、再び彼女が喋りだす。
(昨日もご飯残したの?ちゃんと食べなさい。それ全部食べるまで、ジェリービーンズはお預けよ)
ジンが何か話しているようだが、聞き取れない。だが日常風景を切り取ったテープであることは間違いない。しばらく食事をする音がして、サクラが食器を洗う姿が想像できる。
(じゃあ行ってくるからね。外に出たらダメよ。窓やカーテンを開けてもダメ。誰か来たら静かにして)
(誰もいないふりをするよ)
(とても頭のいい子ね。今度帰ってきたら映画に連れていってあげる。約束ね)
サクラが出掛けたらしく、ドアの閉まる音がした後、長い間、無音が続いた。
静寂をやぶったのは、ドアをノックする音だ。
(坊っちゃーん…坊っちゃーん)
ジャックが顔を歪める。「この声…まさか、ジョナサン!?似てるだけか!?」
沖矢が口元に指を立てる。しばらくあらゆるドアの開閉する音がした。
(みぃーつけた。さ、お食事ですよ)
料理する音。ジンが駆け寄り、一言二言喋ってから、また離れる。また駆け寄ると短く会話し、また離れていく。
(お母さんは入院することになりましたからね。少なくとも三ヶ月は入ってなくてはいけないでしょう…週に一度は俺が来られるとは思いますが)
(お母さんに言われて来るの?)
(あー…いいえ。お母さんでなくて、あなたのおじいさまに言われて、俺はここに来ているんですよ)
ジョナサンはサム・タカナシの方の人間か、とコナンは眉をひそめる。ゴブリンに黒の組織にサム・タカナシ…全員が何かしらの目的を持って、ジンを、もしくは遺産を狙っている。
(外に出られない間、お家では何をされているのですか?)
ジョナサンの声が大きく、はっきりしたものになる。遠くで電車のような音がするのに、声の方がしっかり聞こえているということは、窓際にでもカセットデッキが置いてあって、窓からは電車の通る姿を臨むことができるといったところか。
(掃除とか、洗濯とか…)
(テレビは見ないのですか?ラジオは?)
(音がするから…誰もいないふりをしないと…)
(それはいけませんね。世間知らずは時に命を落とします。世間で何が起こっているか把握しておくことは、多少なりとも武器になります)
そう言い、ジョナサンはすらすらと当時の事件を話して聞かせる。電車の音が過ぎるとジンがどこかに立ち去ろうとしたのか、待ちなさいきちんと聞きなさい、と諌める声がした。
ジョナサンはサクラがいない間だけ、それも昼から夕方の間だけ訪ねてきていたようで、ほとんどはジンひとりで過ごしている。カセットテープ二本分、おそらくサクラが入院しているという三ヶ月の内の、ジョナサンが来た時の日常的な会話が入っていた。
三本目は、サクラの声から始まった。
(ちゃんと録れているかしら?私の声は聞こえる?ジン・クロード)
ジャックがカセットデッキの方へ一歩、耳を澄ませるように踏み出す。
(明日の朝には、ジンをあなたのところへ出発させるわ。ひとりでちゃんと飛行機に乗れるか心配だけど…)
サクラの声が詰まる。生活音も電車の音もジンの気配もなく、録音した場所が別の部屋なのか、もしくは夜が深い時間帯だったのか…冷たく寂しい孤独が音もなく聞いてる方に伝わってくる。
(私はきっと…もう、あの子に会えないのね。今日が最後になるんだわ)
サクラの声が歪む。泣いている。
(あなたは私を恨んでいることでしょうね…あんなに、仕事しか頭にないようなあなたが、人間らしく父親ぶるとは思わなかったわ…私が気づいてないと思った?夜中に子供に公衆電話の受話器を取らせるなんて、もうほんと、考えられない…ジンが誘拐なんてされていたら、あなたどうするつもりだったの?)
彼女は自嘲気味に笑ってから、しばらく啜り泣いた。ジンが心配そうな顔でベッドから降りて、カセットデッキに歩み寄る。ジャックがその手を強く握った。
深呼吸を何度か繰り返して、サクラは再び口を開く。
(私じゃ、ジンを守れないの…
あの子、私に内緒でこっそり外に出ていたみたいで…あの子のこと、組織の人間に勘づかれたと思う。
ブラックって呼ばれている男がいるの…その男が、命は見逃してやるから、ジンを寄越せって言ってきたわ。目的はわからないけど、彼がまた厄介な人で…きっと私を殺してでも奪おうとするわ、ジンのこと。
こういう時、母親は非力ね…子供の前で人を殺すなんてできない…子供の為になら何でもできるけど、子供の前でできることはすごく限られるのよ…)
ジャックの手に力が入る。ジンが困ったように瞬きをして、痛い…とつぶやいたが、力は緩められなかった。
(愛してるのよ、私…私、ジンのことを愛してる…こんな、何もしてあげられない母親だったけど…私…)
「お母さん」ジンがか弱い声で、カセットデッキに声かけた。
サクラは泣き崩れて、嗚咽を漏らした。キャメルがもらい泣きをして、鼻をかむ音が響く。ジャックの目は恐ろしいくらい渇いていて、どんな感情を抱いているのか、全くわからない。
(ジンに…ジンに言ってあげること、でき…できなかった…けど、愛してるわ…愛してるの…
ジンのこと…よろしくね。ご飯あんまり食べないから、食べさせてね…あんまり外に出さなかったから、暑いのとか、眩しいのが苦手だから…徐々に外でも遊ばせてあげてね…たまには甘いものも許してあげてね…
できたら、学校にも行かせてあげてね…
公園なんかで、同年代の友達と遊ぶジンも、見たかったわ…どんな子と喧嘩して、どんな子を好きになるか、見たかったわ…)
さすがにコナンも胸が痛んだ。このテープは父親に届くこともなく、ジンはブラックに連れ拐われ、学校に行かせないまま組織内で育てられた。サクラの切実な願いは、叶うことなかったのだ。
長い沈黙を挟んで、最後にサクラは言った。
(ジンが二十歳になったら、日本の帝都動物園に連れていってあげて。きっと誰かが出迎えてくれて、あなたにも全て話してくれると思うから)
三本目のテープが終わった。
「二十歳のタイミングで、サム・タカナシと会わせる予定だったのか…」
「予定が大きくずれちまったな」コナンは同情じみた声で言った。「ブラックさえ、この夜に来なければ…」
ジン・クロードの待つロンドンへ息子が発つ前夜に、黒澤サクラは殺された。今のジンの記憶はこの当時まで遡っているはずである。
ジャックはジンの手をやっと解放した後、デッキから三本目のテープを抜いた。
「俺も、言ったことはなかったんだ」
急につぶやき、コナン達を驚かせた。彼はデッキに向かったまま、つまりコナン達やジンに背中を向けたまま、ぼそぼそと続ける。
「言えなかった、どんなに気持ちはあっても…言ったら自己満足で終わってしまう気がした」
「愛してる、て話か?」
コナンが尋ねてもそれには答えず、振り返ったジャックはジンに笑いかけた。
「ごめんな、ジン…こんな両親で」
思えばその時の笑顔は、今までのジャックとはかけ離れた妙なもので、ずいぶんすっきりした、何かを割りきったような清々しいものであった。あの時既に彼は決めていたのだろう。その場ですぐに気づくことができなかったのは、後々コナンに大きな後悔を与えた。