漆黒に染まった銀弾:21

子供の姿になったジンは一度目を覚まし、混乱しながらもウォッカに仕事に関する話をいくつかしていた。目の前で苦しみながら子供になったのを見たはずなのに、ウォッカはなかなか事態を飲み込むことができず、ブラックに命じられるまま、子供になったジンを甲斐甲斐しく世話していた。
様子が変わったのは二日ほど経った時だ。ニュースを見ていたジンが突然頭を抱えて苦しみだし、そのまま倒れた。ウォッカはすぐにベッドに寝かせてブラックに報告したのだが、彼は医者でもないので役に立たず、病院には連れていくなの一点張り。ベッドで意識もはっきりしないまま転がり苦しむのを一日中見させられ、高熱が続いて一週間。急にぴたっと意識がなくなり、熱はひかないまま、また一週間…このまま彼は死ぬのかと覚悟した頃に、彼は目覚めた。
「兄貴っ…」
慌てて駆け寄るが、様子がおかしかった。まぶしそうに天井を見つめながら、何度か瞬きをしたかと思うと、なんとも不思議そうな目をウォッカに向けた。
「兄貴…?わかりやすかい?テレビ見てたら急に苦しみだして」
「お母さん…」
「え?」
「お母さんに、お父さんのとこへ行きなさいって…」
まだ意識がしっかり戻ってないのかと思い、すぐにブラックへ連絡を入れた。彼は飛んで来て、ジンの汗掻いた額を拭いながら、少し話して戻ってきた。
「ジンの記憶が、たぶん六歳の頃まで退化してる」
「ろ、六歳!?」
「だから俺のこともわからないってさ」
ブラックは少し悲しそうに言いながらも、不安そうにこちらを見ているジンを振り返ると、なんともデレデレした顔で手を振った。ジンは本当にウォッカのこともブラックのこともわからないようで、目を泳がせながら、小さく震えているようにさえ見える。
「あ、兄貴…兄貴もうこのままなのか?戻ることはないのか?」
「それは俺にもわからんが」焦るウォッカを煩わしそうに睨みながら、ブラックは笑った。「まぁ、このままでもいいじゃないか。また育てればいいだけだし。かわいいだろ?」
「え?あ、あぁ…」
ブラックには何を言ったところでどうにもならないと思い知った。
解毒剤を持ってるかもしれない奴らを当たるからお前は見張ってろ、と一方的に告げて、ブラックはまた出ていった。怯えを含んだ目でウォッカを見ている少年をジンだと思うことの方が難しかった。
いや、この子は兄貴じゃない。組織の命令でガキを預かってると思おう。
そうでも思わないとやりにくくて仕方がない。
それからは少し忙しかった。インターネットで育児に関する情報を片っ端から探し、熱が下がるまで小まめに着替えさせ水分を与え、子供服や靴を揃えた。
「お母さんは?」
たまに不安そうにそう聞かれるのは参ったが、お母さんに頼まれて面倒を見ているとかなんとか、でっちあげを話すと、落ち着いた様子だった。
熱が下がると食欲も出てきて、てきぱきと自分で動いてくれるようになり、ウォッカが世話されているようになった。朝早くに起き上がり、シーツを干し、歯磨きと洗顔を済ませると着替えて、簡単な朝食を準備する。食べ終えると食器を洗い、洗濯機を回し、トイレを掃除した。あまりにもてきぱき用を済ませるので、たまに余った時間ができると、困ったようにニュースをぼんやり見つめている。思い立ったように昼食を用意し、掃除を始め、靴磨きまでする。まったく子供らしくないので不気味にも思ったが、日が経つにつれ不憫になってきた。
「たまには外に出るか?まだ病み上がりだから、そんな長ぇ時間は無理だが…」
本当はブラックから、目立つから外には出してはいけないし、外から見えないよう常にカーテンを引いておけと言われていたのだが、何から何まで奴の言いなりになるのも癪だった。それに、この子供らしくない子供を喜ばせられるかもしれない場所に、ウォッカは心当たりがあったのだ。
ジンは少し戸惑いを見せた後、カーテンの隙間から差し込む陽の光を恐れるように見た。
「でも…こんな明るい内に出たら、お母さんが…」
母親が彼を薄暗い部屋に閉じ込めている様子を簡単に想像できた。真っ当な人生を送ってはないが、ウォッカにも倫理観はある。ジンへの恩恵もある。不運にも記憶を失い子供になってしまった彼に、せめて楽しい記憶を植え付けたかった。
「大丈夫。許可はとっているからな」
本当に明るい時間の外に出ることは不馴れなようで、目深に帽子をかぶっているにも関わらず、ウォッカの腕にしがみついて俯き、隠れるようにして付いてきた。ブラックに見つかるのはやはり怖いので、ウォッカにとっても好都合ではある。
連れてきたのは車の博物館だ。平日なのであまり人もおらず、入館料も高くないので、これもまた都合がよかった。
ウォッカの狙い通り、ジンは睫毛を上げて頬を紅潮させ、興奮抑えた様子でいろんな車をまじまじと見つめた。ジンが車好きなのは知っていたし、その中でもクラシックカーを好んでいたのも見て明らかであった。
ほんの三十分ほどしかいなかったが、彼はとても満足したのか、帰り道は多少鼻息荒く、ウォッカの裾を掴む手も力が入っていた。さすがにこんなに付きっきりで面倒を見ていると可愛く思えてくるもので、売店でミニカーをひとつ買ってやった。それからも子供らしからぬ生活習慣は変わらなかったが、その間もずっとポケットや空いた手に買ってやったミニカーを忍ばせているので、これが成長するとあの冷徹な兄貴になるのか、信じられなかった。
たまに買い物なんかに連れ出し、寝食を共にしている間に、ジンの方からぽつりぽつり話しかけてくるようになった。
「チケット…無かったですか?」
「チケット?何のチケットだ?」
「飛行機の…お父さんのところに行くのに…お母さんに渡されて…」
「あ…いや、見てねぇな…悪い…」
ジンは困ったような顔をしながらも、そうですか、と素直に引き下がる。ずっと黙って掃除をしていたのは、もしかしたらチケットを探していたのかもしれなかった。
「お母さんが、ひとりでロンドンまで行って、お父さんのところに行きなさいって。お父さんが空港で待ってるから…」
飛行機でどこへ行く予定だったのか尋ねると、そう答えた。盗聴を恐れたのか、耳を澄ませないと聞こえないほどの小声だった。つられて、ウォッカも小声になる。
「母親は今どうしてるんだ?」
「お母さんは…」ジンは瞬きを一回して、眉を下げた。「お母さんは、わからない…お客さんが来て…」
ジンも事情を全く理解できていないらしく、困惑している。それ以上は聞けなかった。
ジンに脱走の気はないらしく、彼を置いて出ていっても大人しく過ごしているようだった。ウォッカは土産を買ってきてやるからと約束し、近くの喫茶店で黒澤サクラについて調べた。ブラックと初めて会った時に聞いたクラウディオについてはもう調べていたので、黒澤サクラなる人物がジンの母親である可能性が高いと知っていた。
黒澤サクラは殺されている。散々いたぶられたようであった。年代を確認すると、ちょうどジンが六歳の時である。
母親が殺される直前の時まで記憶が遡っていることがわかった。ということは、この母親の死にブラックが関わっている可能性が高い。お客さんが…と言っていたのは、ブラックのことだろうか。
嫌な予感がした。
ウォッカはベルモットに連絡した。
「あら珍しいじゃない、あなたが私に連絡してくるなんて。まるで想定してなかったことがすぐ近くで起きたようね」
真っ赤な唇がにやりと両端から引き上げられる様が想像できた。
ウォッカが黒澤サクラについて尋ねると、彼女は少し考えるような間を置いた後、息を吐き出すように笑った。
「私もその事件に詳しいわけではないけれど…でも黒澤サクラは従順で組織にとって重宝すべき人間だったことは聞いてるわ」
「…それだけ聞けりゃ十分だ」
「そうなの?…ねぇ、それより最近、ジンと連絡がつかないのだけど?」
「あ、あぁ…ブラックが頻繁にかけてくるから、鬱陶しくて出ないようにしてるんだろ」
「そう、災難ね。こうもジンの声を聞かない日が続くと寂しいわ。私がしおらしく泣いていたわと伝えてちょうだい」
チュ、と色っぽく唇を鳴らし、電話は切れた。
黒澤サクラは組織に忠実な人間だった…つまりジンは生まれたその時から、組織の人間として生きる道しか用意されていなかったのだ。靴底まで徹底的に磨くその執着は、自分という痕跡を残さない為に教育されたものだったのかもしれない。
自らの意思で組織に加入した自分とは違う。選択肢も与えられないまま、明るい町を歩くことも許されず、ミニカーひとつで喜ぶあんな無邪気な頃から、血なまぐさい世界に閉じ込められていたのだろう。誰も彼を逃がさなかったし、誰も彼を不憫に思わなかったのだろうか。
甘ぇこと言ってると仇で返されるぞ…
いつだったかジンに吐き捨てられた言葉である。ウォッカの脳裏にブラックが浮かぶ。今、ジンを逃がしたりしたら、奴がすぐに引き金を引くだろう。
ドアを開けると、テレビの前でミニカーを走らせる幼いジンが見えた。膝と片手をついて、フローリングの床を走るミニカーを覗く姿は、その辺で走り回る子供たちと何も変わらない。
ウォッカの姿に気がつくと、慌ててミニカーをポケットに仕舞った。
「おかえりなさい…」
消え入るようなその声で、ウォッカは心に決めた。